あれこれやそれこれ

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「行間を読む」の意味を私なりの解釈で説明してみます

いろいろあったのでこれで最後

見える人には見えるけど、見えない人にはぜんぜん見えない行間の話。すっきりしたい方もおられるだろうから、僕の思う『行間を読む』について書いておこうと思います。

「行間を読む」との出会い

僕がこの言葉に出会ったのは高校生の時。僕が住んでいたところに「落合信彦」が講演に来たんですよ。落合信彦、知ってますか?ジャーナリスト。一部では「ただの酔っ払いの大嘘つき」という人もいるし、「ただの小説家だ」という人もいる、でも僕はあのときあのジャーナリストに憧れた。

あ、落合信彦さんの息子があの落合陽一さん。でもたぶんみなさんが想像してるのはこっちでしょ?違うよ?これは渡部陽一さん。

硝煙の向こうの世界 ~渡部陽一が見た紛争地域~

硝煙の向こうの世界 ~渡部陽一が見た紛争地域~

 

そんな落合信彦が講演に来たのを僕は部活帰りに聞きに行ったのです。100人ほどしか入れないホールの最前列に僕は陣取ることができて、目の前に落合信彦が出てきました。出てきて壇に登るといきなりスーツの上着をバッ!と脱ぎ捨てて幕の方に投げつける!!!

かっ、かっこいい!!!

あの時はあの迫力に押されたし、今から始まる講演がエキサイティングになると大きく感じることが出来たけど、今考えたら「出る前に脱いどいたらよかったやん」という気がしなくもない。

で、その講演会の中身はなかなか面白かった。ソ連が崩壊してそれほど日がたっていなくて、アメリカとロシアは奇妙な仲良し関係、当時の書記長と大統領が会談をしたんだけど、たった1日で話が決裂、どっちかが国に帰ってしまったことがあって。

それを新聞などは「米ソ再び緊張!」みたいに大きな見出しを出したというんですが、その裏話を落合信彦がしてくれたんですよ。それが本当かネタかは今の僕にはわからないので、軽く読み流してもらったら良いんですが。

当時の書記長がアメリカ大統領に出会っていきなり「ゼロオプションでいこう」と言ったっていうんですよ。ゼロオプション。

ゼロオプションとは「核兵器をゼロにする」こと。アメリカとソビエト(ロシア)が先陣をきって核兵器をお互いに廃棄しないかと提案したというんですよ。事前にそんな通達や相談も何もなかったためアメリカ大統領は了解することも拒否することもできず、決裂を装うことで会談を1日で終わらせ、アメリカ国内での話をまとめるために帰国したっていう話だったんですよ。

面白くない??この話を聞いてジャーナリストになろうと思ったのは17歳だった僕。まぁ翌年には考古学者になりたいと変わったのはマスター・キートンのせいなんだけど。

落合信彦から学んだ「行間を読め」

この落合信彦の講演会はそんな世界情勢の話から、この社会を生きていくための方法、みたいな話に変わっていったんですよ。

そこで言われたのが新聞の話。新聞にかかれているのは事実ではない、なぜかというと同じことを新聞社が言っていないから。新聞の記事の中にはそれぞれの新聞社の思惑とか主張したいこととか思想などが随所に入れられている、って。

だから日本の新聞を鵜呑みにしてはいけないと。これはすごくピュアだった僕の耳に響いたし、新聞ですら「事実として受け止めてはいけないんだ」という気持ちを持つことになりました。

そしてもう一つが外国の新聞。これもいろんな資本などが含まれているのでそのままを受け取ってはいけない。ただ2つを除いて。それがロイターと共同通信だって言ってました。でもその2つも場合によっては事実を歪曲しないと記事が書けないこともあると。

で、ここで言われたのが「行間を読め」という話。

新聞というメディアの文章の間から少し見える「本当の真実」を読み取ろうとする力こそがこれから必要になる、ただ流れてきた情報をうのみにするのではなく、その中の本当の真実をそれぞれが読み取ってこの社会を生きていくべきだと。

カッコイイ。

そして最後に落合信彦が講演を聞きに来た人に向かってこういったんですよ。「こんな講演に熱いまなざしで話を聞いてくれる学生服を着た子が来てくれているのが嬉しい、日本もまだまだ捨てたものではない」って。それも僕に向かって。

あのだみ声は本当に嬉しかったなぁ。でも今まですっかり忘れてたわ。

狼たちへの伝言

狼たちへの伝言

 

僕にとっての「行間を読む」

もう言及することもないし、そもそも僕が書いた記事も今朝消してしまったんですが、ある記事の中に「行間を読め」と書いたわけです。

その意味は「記事に表立って書かれてはいない作者の意図を感じてほしい」というもの。文章というのは主義主張がすべて反映されるかというとそうではなく、どうしても言葉のアヤとか表現不足などになりがち、それを受け止める側が批判的にとらえるのではなく「この文章の作者はこういうことをいいたいんだろうな」と理解してほしかったから。

そこ、説明しろよちゃんと!という声が聞こえるすいません。

あの場ではこの話をしても受けいれられる気もしなかったし、もう説明しなくてもいいかなというなかば投げやり。そしてその僕の記事をきちんと理解してくれたのは、今はなんだか「きのこ」に変わってしまった「元ねむさめ」ことねむれないきのこさん。

それを彼女は彼女なりに受け止めて記事にしてくれたんだけど、そのまま受け取る人も入れば受け取れない人も出てきてしまった。でもそれは彼女が悪いんじゃなくて、この「行間を読む」という言葉をきちんと説明することなく表現してしまった自分に責任があるということ。

だからきのこさんにも謝罪しなきゃいけないし、この「行間を読む」という言葉自体の使い方としても僕はまったく正しくなかったということです。

発信する側、受け止める側

今回、他にもまぁいろいろあったんですが、そこで気付いた話。

この「行間を読む」ということについては二者が登場します。1人は「発信する人」そしてもうひとりが「受け止める人」です。僕の言う「行間を読む」というのは読む側=受け止める人が「発信する人の意図を理解しよう」とする必要があるんですが、それがすごく難しい。

たとえば、新聞。新聞の行間を読むというのはある程度の「知識、社会情勢など」で行間の範囲が絞られるところがあるんですが、ブログというメディアの中ではその縛りがすごく弱い。受け止める側の考え方しだいでどうにでも取れてしまう。

書かれている文章についてネガティブな捉え方をしているとき、その行間を読もうとするとネガティブ側に振られる。ポジティブな捉え方をしているならポジティブ側に振られる。

僕は元記事を書くにあたって読んだ記事の中身をポジティブに捉えた部分があります。すると「行間に書かれているであろう脳内補足されるもの」はポジティブになります。しかしそれが「批判的に読んだ人」に「行間を読め」と言っても僕の思っていたような「行間」になるわけではなく、その「受け取る側が考えた」行間で埋められるわけです。

ここ、すごく大事でしたね。気づくのがすごく遅かった。

文章にある行間を読んでほしいとは思ったけど、捉え方というのは人それぞれ。それを「受け止める側が理解しろよ」というのはちょっと乱暴だったなと。本当はそうではなく、「発信する側に説明を求める」か、「発信する側が発信する前にきちんと文章に盛り込む」ことを求めていくことが必要なわけで。

で、このことであるブロガーとあるブロガーが言い争いになってしまったわけですが、元を辿っていくとやっぱり僕に原因があるわけです。こういう説明を事前にきちんとした上でもし「行間を読め」と言ってなかったら、お互い理解しあえていたんじゃないかなと。言及はもうあえてしないのですが、申し訳ないなと思っています。

ブロガーとして求められること

今回の事で深く考えさせられたのは「記事=文章を書く」側の意識。なるべく誤解を与えない表現を考えていく必要があること、読む側に「理解してほしい」」と思うのなら、発信する側が今以上に切磋琢磨する必要がある事。

「そんな風に理解されるとは思わなかった」とか「そんな意味で言っていない」と発信する側が言うことなく、発信する側が読み手にきちんと伝わる文章を書こうと考えていくことが大事なんじゃないかなと。

それはどんなブロガーでも同じなのかなと。意図して「狙った」記事を書いてしまうこともあるかもしれないですが、やっぱり読み手ファースト。

色んな人に迷惑をかけてしまったお詫びも兼ねて、思うところを書いてみました。