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『戦国・ザ・リアル』で盛り上がる大阪城にあえて釘を刺す「お前は昭和生まれの城だからな」

今のお城は三代目なのです

コマーシャルをバンバンやって賑やかだなぁと思いつつ、ちょっと歴史好きな私には「それもちょっと違うんじゃないのかな」という天邪鬼ぶりを発揮したくなるやつです。

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「戦国・ザ・リアル at大阪城」ってどんなイベント?

公式ホームページはこっち。

www.usj.co.jp

あの名勝「大阪城」と、世界最高のショー※を数々手掛けるユニバーサル・スタジオ・ジャパンが強力タッグ。
〝歴史遺産″と〝ワールドクラスの演出″を掛け合わせた、誰も見たことがない圧巻のエンターテイメントが誕生。
卓越した戦略で現代人にも人気の高い知将、真田幸村をテーマに、その痛快な戦いっぷりにエキサイトし、その熱い生き様に感銘する。
刺激的で感動的な戦国ライブ・エンターテイメントが、ついに幕を開ける。

テレビCMはこっち(限定公開なので消えてたらごめんなさい)


youtu.be

大阪城を舞台にタイやヒラメの舞い踊りならぬ「一大スペクタクル」が起こるそうです。花火がどかーん、ムキムキ男子が入り乱れ、ピチピチ美女が踊りまくるという豪華絢爛うんぬんかんぬん。

実はこれ、2016年12月16日(金)が初日、来年2017年の3月12日までのおよそ2ヶ月間の公演なんですが、リハーサル等々で大阪城の周りからはチラチラみえていました。

先月かな、大阪での仕事が終わってからの帰り道、いつもは大阪城がくっきりとライトアップをしているのを見ながら帰るのですが、ちょうどこれの照明テストをしていたようで、そりゃもう鮮やかにピカピカしてましたよ!そうそう、プロジェクションマッピングとかいうやつ!!(今名前が思い出せなかったので妻に「あの建物にピカピカさせるやつ」で教えてもらいました)

事前にこういう真田幸村のイベントをやるとは聞いてたので、キラキラ光る大阪城を見つめながら僕はこう思ったのです。

「このお城、秀吉が作って徳川が作って昭和に建て替えた三代目なんだけどな」って。

大阪城の歴史をちょっとかいつまんで紹介するところ

ところで大阪城ってなんなん、という方のために「小学生でも分かる程度に大阪城を説明」してみることにします。細かいところは端折りますので歴史マニアの方は目をつむるように。

プレ大阪城。本願寺、石山御坊→石山本願寺の時代

およそ西暦1500年ごろ、応仁の乱が終わって日本が戦国時代とよばれる大名が統治を始めた頃、本願寺というお寺の勢力が京都山科の本願寺の別院として石山御坊(いしやまごぼう)というものをこの地に建てます。戦いが広がった1530年ごろ山科本願寺が焼かれてしまい、そこに住んでいた人たちは石山御坊に移ってきたことから、この場所を「石山本願寺」と名前を変え、本願寺勢力の中心地として栄えます。

石山本願寺は周りからの勢力にも負けないよう、堀や塀をつくり防御力を高め、武器を集め武装化していき、周りの大名からも手出しができないような拠点になりました。でもお城ではなく武装化された住居のようなものだったんですね。

初代大阪城ができるまで

尾張の大名だった織田信長がだんだんと勢力を伸ばし関西一円をついに掌握しようとした時、最後まで抵抗したのが石山本願寺でした。本願寺は一向宗とも呼ばれ、一致団結した戦いで織田信長を苦しめます。

現在のように埋め立てが進んでいなかった当時、石山本願寺は海から物資を搬入することができたため、道路を封鎖して城攻めしようとしてもうまくいかず戦争が長期化していたものを、信長が海軍を作り軍船で大阪湾を封鎖したことからついに本願寺勢力は降伏、これが1580年です。

しかしそのたった2年後、信長は本能寺の変で死んでしまい、家臣団の中から抜け出して秀吉が天下を取り関白となります。これが1585年なのですが、実は天下を取る前、1582年に大阪城の普請は始まって翌年に天守閣が完成、どんどん秀吉の居城として防御力を高められていきます。

「ここ、ええとこやん。城建てたら最高やん?」と紳助風には言ってないと思いますが。海にも出れて京都にも近い、まさに天下を取ったものの居城としては最高の地だったのでしょう。

当時の城の形は大林組のHPで見ることができます。このページ、面白いんですよ。当時の大阪城を今の設計施工で作るといったいどのくらいの工期、総工費でできるかを真面目に計算してるんです。

https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/shiro/p01.html

総工費●●●億円、工期はなんと●年。まぁゆっくり見に行ってみて下さい(^_-)

初代大阪城の築城から廃城

秀吉が1598年に死ぬとそのあと大混乱、いわゆる大阪の役が起こるわけです。その前の関が原の合戦で東軍と西軍に別れ、家康側が勝利したことで家康が政治の主導権を握ったものの、それに逆らう旧豊臣家との確執がついに大阪城で激突します。

ここでホントは「国家安康君臣豊楽」の話を入れたいんですけどまたの機会に。「林羅山ともあろう人がこれを言いがかりに戦いへ舵を切らせた」はちょっと誤りとだけ触れておきましょう。

「大阪城の物資があれば10年は戦える」とマ・クベのようなことを言ってた淀君も家康の大砲で結局は敗戦を認め、家康主導の停戦に合意します。

  • 秀頼の知行の安堵、身の安全を保証すること
  • 淀君を江戸に人質に送らなくても良い
  • 秀頼方についた浪人や武将については許すこと

そしてもう一つの大きな約束が二の丸、三の丸、惣構(そうがまえ、外堀、内堀などの防御のための施設)の破壊、埋め立てというもの。これをよく「家康は豊臣家をだまして堀を全て埋めた」とかいいますけど、それは嘘らしい。金地院崇伝の書いた日記「本光国師日記」によると二の丸と三の丸の破壊を豊臣方、惣構の破壊を徳川家側がやると約束してたらしいんです。なら約束通りやん、ということで。

二の丸、三の丸ってなんなん、という方にはこちらをどうぞ。

城の見方ガイド(5) 本丸とか二の丸とか城の曲輪とは? - 裏辺研究所

ここで塙団右衛門(塙直之)の話もしたいところなんだけど我慢しておく。「言いふらし団右衛門」という短編を司馬遼太郎が書いているんですけどこれがまぁ面白い。名を挙げたい団右衛門のイライラと一世一代の活躍がキラキラと輝いているのです。でも一番いいシーンは朝鮮出兵のときに加藤嘉明に言われて3人でも持てないと言われた長い指物を持つところ。絹4反に日の丸を書いた旗というから、ざっくり1.2m×12mくらいの細長いものか。

団右衛門が下帯ひとつの素はだかの背に大指物をくくりつけられ、加藤陣の前面に矢弾をあびながら悠然と立ったとき、そのみごとさに敵味方とも声をのんで見とれた。
「あの壮漢はだれじゃ」
塙団右衛門の名は、一時に朝鮮在陣の全軍に知れわたり、同時にこのため、嘉明によって知行三百五十石の物頭にとりたてられた。団右衛門立身のはじまりといっていい。

短編集「人斬り以蔵」P249

 僕は「人斬り以蔵」に収録されてた短編を読んだけどこっちもおすすめ

言い触らし団右衛門 (中公文庫)

言い触らし団右衛門 (中公文庫)

 

なにはともあれ、大阪冬の陣で初代大阪城は堀を埋められ二の丸三の丸を破壊されてただの「観光名所」のようにされてしまいました。そして再びやる気になった豊臣家は大阪夏の陣でついに落城、初代大阪城は完全に燃えてしまったのでした。(ごめん、ここ3行で終わらせるってどうかと思うけど)

二代目大阪城の完成

初代大阪城が燃え尽きたあと、1619年に大阪は天領(幕府直轄領)となり、その翌年から家康の三男で二代目の秀忠が大阪城を再築する工事を始めて、三代目の家光のときに完成します。これが二代目の大阪城。

でもこの二代目大阪城と初代大阪城の違いは「土地の高さ」。二代目を建てるにあたって強烈に盛り土(もりつち笑)をしたことによって初代の石垣が隠れるくらいまで地中に埋められてしまったんですね。

その初代大阪城の石垣をいつでも見ることができるための施設を作ろうということで募金活動が行われていたりします。

www.toyotomi-ishigaki.com

大阪市では、大坂夏の陣から400年の節目を迎えるにあたり、初代大坂城の昭和59(1984)年発見の石垣を、多くの皆様のご支援のもと再び掘り起こし、公開する事業に取り組むことといたしました。歴史ロマンあふれるこのプロジェクトが成功すれば、地中深く眠っている豊臣大坂城の本物の石垣を常に見ていただくことが可能になります。秀吉が築いた“三国無双の城”と徳川幕府の再築になる“日本一の石垣の城”を見くらべて、日本の歴史がダイナミックに転換した激動の時代を体感していただける場になるはずです!
大阪城の歴史文化の魅力向上にご賛同いただき、多くの皆様のご支援をお願い申しあげます。

このページの面白いところは「豊臣大阪城」と「徳川大阪城」というネーミング。そう、この二代目の大阪城は豊臣家の遺構どころかあの徳川家が作ったお城だったのです!!!(いや別にそんなに大したことではないけど)

家光のときに完成した徳川大阪城は(気に入ったので使うことにした)歴代城主である将軍を迎えることがなく200年以上過ごします。ああ、天下泰平。次に徳川大阪城が活躍するのは幕末になってから。徳川家茂の第二回長州征伐の時、1865年。

大阪城は幕府最西の拠点として使われただけですが、結果的に第二次長州征伐で幕府は事実上の敗北、将軍家茂は大阪城で死去、ラストエンペラー慶喜が出てくるわけです。

そして幕末最後の騒乱の中、二条城と大阪城は慶喜の居城として使われるも鳥羽伏見の戦いで敗北、慶喜が江戸に敗走したときに火事が起こりまたもや焼失してしまいます。これで二代目大阪城こと「徳川大阪城」もおしまい。

三代目大阪城は昭和生まれ

幕末に燃えてしまった徳川大阪城は明治時代に陸軍の建物が建てられ、一般の人が入れないような物々しい場所になってしまいます。そんな中昭和に入ると天守閣を復興させようという大阪市長の掛け声に募金運動が盛んになり半年で目標額の150万円を集めたとか。

昭和初期の150万円っていうのを単純にあるものの値段で比較するのはすごく難しいみたい。こちらのデータベースの質問に照らし合わせてみると・・・

crd.ndl.go.jp

このことから昭和2年の10円は、平成24年の価値に換算するとおよそ6136円となる。
なお、価格価値の変遷については様々な物差しがあり、今回調査した多くの資料に一概に値を示せるものではないと記載されており、上記の計算方法も数ある物差しのひとつである。

しっかり一概には示せないといいつつもざっくり600倍か。ということは150万円×600倍と考えると9億円くらいか。今年の24時間テレビが現時点で集めた募金がおよそ8億8000万円、ということは当時の募金はかなりの「一大スペクタクル」が行われた感じですね(ここであえて使ってみた笑)

そうやって集められた募金を元に天守閣は再興するものの、陸軍に接収されたりとなかなか昭和の暗い時代には不遇の時代を過ごしたようです。当時、大阪城敷地中にはアジア最大規模の兵器工場「大阪陸軍造兵廠」が作られたことから太平洋戦争時には多くの空襲被害を受けることになります。今でも石垣に機銃掃射の痕が残ってたりするそうです。これは知らなかった。

thepage.jp

こんど近くを歩いた時は注意深く見てみよう。こんなところに太平洋戦争の痕があるんですね。

三代目は平成に大改修

そんな昭和初期に建てられた三代目大阪城も老朽化が進み、平成に入ってから大改修が行われました。

  • 城全体を仮設工事で覆って足場などの重量で城建物に負担がかからないようにした
  • 屋根にしっかり防水工事をした、銅の屋根はなるべくリサイクルした
  • コンクリートの腐食を抑える工事をしたため耐久性があがった
  • 金属部分をステンレスに変更したり塗り直しをしたことできれいになった

そしてこれが今の大阪城です。キラッキラッ!

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大阪城の歴史をちょっと振り返ってみて

時は平成、真田丸などの人気もあって大阪城の周りではウォーキングラリーが行われていたり、USJの「戦国・ザ・リアル」が行われていたり。たくさんの人が来場してライトアップの美しさに圧倒されたり音楽や踊りを楽しんだりするでしょう。

でも、大阪城には大阪城の時には華々しい、時には暗い歴史の影を帯びたときもあるようです。こんな時にちらっとそういうことも思い出してもらえると「日本の歴史」というものにちょっと興味が出るのかな、と思いました。

タイトルの「お前は昭和生まれの城だからな」ですら今は平成、平成の大改修があってこそ今も優雅に建っているんですよね。来年はお城の中も入ってみようかな。