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あれこれやそれこれ

雑記系ブログのさらなる高みを目指すブログ

「真田山」という地名にピンと来たらやっぱり真田幸村ゆかりの真田丸跡でした

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真田幸村、真田丸、そして今は真田山。

昨日は仕事で大阪に出ていました。月に2回くらい行ってるんですよ。道はあまり詳しくないのでカーナビに頼りっぱなしなんですが、ルートにも少しづつ慣れてきて、地名に興味を持つ余裕が出てきたりして。

昨日通った交差点にあった地名が「真田山」って書いてあったんですよね。「真田で大阪っていうことは真田幸村とゆかりのある地名なのかな」とふと思ってそのまま走ってしまったんです。まぁ仕事中で昨日は時間も押していたのでしょうがなかったんですが。

でもその地名に興味が湧いたのでスマホに入れてるメモアプリに「真田山」とだけ入れておいたんです。興味って大事。ブログのネタとしてだけじゃなくて。さて、時間が少しあいたので真田山、調べてみました。ああやっぱり真田幸村の真田丸があった場所だったんですね。

歴史に興味が無い方のためにちょっとだけ説明してみましょう。

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画像:真田丸の場所はここだ! 大阪明星学園に「真田丸顕彰碑」&「真田丸プレミアムトーク」 - 玉造イチバン

父昌幸、兄信之、弟幸村の真田親子のストーリー

戦国末期、真田という名前で3人有名な人が出ています。父昌幸(まさゆき)、兄信之(のぶゆき)、そして弟信繁(のぶしげ)です。ここがいきなりややこしいんですが真田幸村の本名は真田信繁っていうんですよ。(ここで武田信繁について語りたいんですが端折ります)以降は信繁ではなく便宜用幸村の名前を使うことにしますね。

まず、父昌幸というのは武田信玄の家臣で、信玄が死んだあとはその息子勝頼にも仕えました。勝頼が信長に滅ぼされた時、昌幸は岩櫃城という城を守っていたんですがそのまま治めることを許されます。でも本能寺の変で信長も死んでしまうとバランスが崩れ、北の上杉家、南の北条家、南西の徳川家からも睨まれる存在に。岩櫃城っていうのは今で言う群馬県にあって、ちょうどそれぞれの境目だったんです。

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画像:真田昌幸 - Wikipedia

そこで父昌幸はうまく大勢力をかわしながら真田家を守っていきますが、上杉家に対し人質を差し出すことになり弟幸村は上杉家に預かられることに。そして秀吉が台頭してくると、秀吉からの命令で真田家は何度も戦った徳川家の配下大名になります。そこで兄信之は徳川家康の配下の武将本多忠勝の娘の小松姫(ゲームなどでは稲姫として有名)と結婚します。

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画像:小松姫 - Wikipedia

これ、大事。兄信之は家康の武将の娘を妻として迎える。つまり徳川家との絆が深くなったということです。

さて、昌幸が秀吉に臣従することになったことで幸村は上杉家の人質から秀吉の人質として人事異動(笑)大阪に送られます。そこで石田三成の親友大谷義継の娘と結婚し豊臣家との絆が深くなる上、秀吉の馬廻衆の1人として1万9000石の給料をもらって活躍、あの石田三成の大失敗の戦い忍城の戦いに参加したとかしていないとか。この頃には秀吉から「豊臣姓」までもらっていたそうで、完全に気持ちは豊臣家にぞっこん。

さっきのとおり兄信之は徳川家と、弟幸村は豊臣家との絆を深くします。

秀吉が死んで徳川家が台頭、それを気に入らない大名が東西に分かれて戦いました。関ヶ原の合戦です。この時は兄信之が家康側の東軍、父昌幸と弟幸村は豊臣家の西軍に分かれて戦いますが、最後は東軍の勝利に終わりました。この戦いで昌幸と幸村は家康の三男秀忠と籠城した上田城で戦いましたが見事に撃退、家康から嫌われます。

さて、敗戦で父昌幸と弟幸村は殺されそうになったものの兄信之の義父本多忠勝のはからいで殺されずに紀州(いまの和歌山)に流罪となります。そこで父昌幸は年老いてなくなり、幸村も40歳代後半へ。ここでついに豊臣家と徳川家の最後の戦い「大阪冬の陣」が始まることとなり、幸村は紀州を脱出、大阪城の豊臣家の元に走り合戦に参加することとなったのです。これが大阪冬の陣というやつです。

どこが簡単に説明するやねん!!!笑 すいませんつい。

真田幸村が作った砦、真田丸

当時の大阪城というのは堀も深く巨大要塞。ちょっとやそっとでは攻め落とせません。当時の合戦では「攻城は籠城兵の10倍の人数が必要」などと言いますから。

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これは豊臣政権のときの大阪城の図。上の灰色の部分は水堀、左下の階段上になっている部分と一番下の一文字の部分は「からほり」と書かれています。

からほり=空堀といってもただの空き地ではなく、溝を掘って歩行を困難にしたり(障子堀)畑のように連続した土塁を築いたり(畝堀)防御力は高いものでした。といいつつ、実は大阪城の南側は標高が高く、水堀にしようとするとかなりの大工事で土を掘らなくてはいけないので空堀でいいや、というのが本音だったそうです。

※空堀商店街、名前が地名として残ってますね!

そんな防御力の高い大阪城を構える豊臣家の人たちは「守るだけで余裕っしょ」と楽観ムード。しかし幸村は「それでは駄目だ!」と大阪から打って出て近江瀬田あたり(今の滋賀県大津市)あたりで勝負をつけようとまで進言するものの聞いてもらえず。

あ・・・ごめんなさい。もう一つだけ余談。

大阪を今の「大阪」とはっきり書かれるようになったのは明治時代になってから。それまでは「大坂」から始まりだんだんと大阪へ移っていきました。とくに幕末、「坂」という字が「土に反る(つちにかえる)」武士として縁起が悪い!ということで一気に「坂から阪へ」移っていったようです。ごめんね余談ばかり(笑)

さて、籠城することになったものの、不満な幸村は大阪城の弱点、大阪城の南側の1点に砦を築いたとされています。それが後ほど真田丸と呼ばれるんですが、実はこれは幸村によるカムフラージュで、本当に大阪城の弱点というのは別の所にあったそうなんですね。それどころか真田丸は戦国時代最高の出城だったと千田さん(奈良大学学長、城郭考古学の権威)は言います。

真田丸は勝つことを前提に、明快なビジョンを持ってつくられた出城でした。少ない人数で、とてつもない数の徳川軍を打ち負かすには、敵兵を砦まで近づかせ、徹底的に叩くしかないわけです。真田丸は、相手が接近してはじめて威力を発揮する砦なのです。
この砦は城づくりの最善の知恵を結集してつくられています。ここまで徹底した前線基地はちょっとないですね。戦国時代最高の出城であったといっても過言ではありません。

千田嘉博さんインタビュー「真田丸」最新研究(壱) - 玉造イチバン

これね、NHKの真田丸を見ている人は是非読んでみてくださいよ。イメージが絶対より深くなるから。

さてこの真田丸で幸村は大活躍、「日本一の兵(つわもの)」の名を高めるのですが、それはここでの大活躍からのお話。

実はこの大阪冬の陣に「真田」という男が大阪城入したという話を家康が耳にして「父昌幸か、弟幸村かどっちだ?」と聞いたという話が残っています。答えた人が「弟の幸村っすよ」と答えると家康は「なーんだ、幸村か。たいしたことねーな」と言ったとか言わないとか(そんなふうには絶対に言ってない)

それが大阪夏の陣では家康の陣のすぐ手前まで迫り家康に死を意識させるところまで突き進んだんだから歴史って面白いですよね。

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画像:真田信繁 - Wikipedia

ちなみにですが、関ヶ原の合戦の時に徳川家についた兄信之は大阪冬の陣、夏の陣とも病気で参加せず、息子2人が参加。徳川政権下でも真田家は生き残り、明治時代まで続いたそうです。