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あれこれやそれこれ

雑記系ブログのさらなる高みを目指すブログ

家康のことは嫌いでも三成のことは嫌いにならないでください!

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石田三成はもっと愛されてもいいはず

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群雄割拠の戦国時代。沢山の大名や武将が登場して大活躍する僕の大好きな時代ですが、数名嫌われている人がおられますね。

一、明智光秀
二、石田三成
三、小早川秀秋

そんな彼らのうちの1人、石田三成のお話を・・・。

織田信長に見出されて重用されたのに謀反を起こし、信長を本能寺の変で殺害したあげく三日天下で竹槍で殺された(という)明智光秀。豊臣秀吉に見込まれ政治手腕を存分に発揮したのに、秀吉亡き後徳川家康に天下をすっかり奪われたついでに汚名まで着せられた石田三成。秀吉の甥っ子という良ポジションからスタート、ポスト秀吉とまで期待されながらも秀頼が生まれたことで窓際族から小早川家に養子となり、関ヶ原の戦いでは豊臣家の西軍を裏切って徳川家の東軍に寝返り大逆転のきっかけとなるものの、あっという間にお取り潰しになってしまう小早川秀秋。

そう、全員わが近江(滋賀県)にまつわる方々。これはどうしたことか。

特に三成は滋賀県でも「もっと愛して欲しい」ということでコマーシャルを二つほど立ち上げてますがいずれも優秀(笑)「みつなり~♪」は本当に耳に残ります。

youtu.be

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歴史というのは結果論であり、勝者が正義になることが圧倒的に多いんですよね。。信長に対し謀反を起こした明智光秀は悪者といいつつ、延暦寺他寺院を焼き討ちしたときに荒れた坂本を復興し、延暦寺の勢力と京都への玄関としての坂本をしっかりと守ったという善政は間違いないものですし。

三日天下の後、実は竹槍で殺されたのではなくて生き残り、徳川家康に使えた南光坊天海という僧侶は実は明智光秀だった、なんていう面白い話もありますし。なんかこういうのワクワクしますよね。

小早川秀秋も裏切りばかり前に出てきますが、関ヶ原の合戦の後の論功で岡山55万石を治めることになった時には築城、農地改革、寺社復興など抜群の政治力を発揮したと言われています。

よく知られているのは、従来の外堀の外側に新たに倍の幅を持つ外堀を築いたことで、これにより城域そのものが約2倍に拡張された。この新しい外堀はわずか20日間で完成したと伝えられ、「二十日堀」と呼ばれる。さらに総検地の実施、寺社領の再整備と古刹の復興、領内の域割りの実施等、数々の治績を残す
小早川秀秋

さてそして残りの石田三成さんですよ。日本史の中でも最高位にランクされるばかりの嫌われっぷりは泰平の世、徳川家の江戸時代に最後まで抗った功績から(笑)あるときは忍城攻めの失敗を笑われ、あるときは小早川秀秋の離反の原因を作ったと陰口を言われ、あるときは「アイツはもともと茶坊主だから」と笑われる、と。

いやいやこれは本当の石田三成を知らないからこういうことを言うんだと言いたい(1000文字打ってやっと本題にたどり着いた)。

意外な三成像

石田三成というと武功というものがなさそうなイメージで、戦いに行っても補給係とか後方支援的なことしかやったことがなさそうですが、実は秀吉が柴田勝家を倒した賤ヶ岳の合戦の時には最高の栄誉「一番槍」をつけた(かも)という資料が残っているそうです。

資料の名前は「一柳家記」一柳図書という人が書いたもののようで。

一柳家記より
(天正11年4月21日)
其時之先駆衆は、加藤虎之助(後肥後守)、大谷桂松(後刑部少)、石田佐吉(後治部少、又一説には治部少出合候沙汰無之、福島左衛門大夫内櫻井佐吉)、片桐助作(後市正)、平野權平、奥村半平、一柳次郎兵衛、同四郎右衛門、稲葉清六、以上拾四人(内四郎右衛門、清六は市助士也)、一萬五千之敵に可馳向所存無類之儀と其比申由、後敵に様子承候へは、前日之合戦に労、又は引立たる軍兵と云、闇夜之事にて候得者、け程之小勢にて御懸可被成とは不存候由、浅美藤右衛門と申者後陣に罷在、後関白様へ被召出、右之通語被申候、
(中略)四郎右衛門其日之装束に…九尺計之大身之鑓を提突廻候由、奥村半平は鑓を突折、太刀にて之働也、其外加藤虎之助、同孫六、平野權平、櫻井佐吉、片桐助作、加須屋助右衛門、石川長十(又一説には石川兵介)、脇坂甚内、大谷桂松、奥村半平、福島市松、同與吉郎(赤母衣を懸)、稲葉清六、一柳次郎兵衛、前後左右にて何も劣ぬ働之由、此時石川平助討死す

 こうやって資料をのせると「ほう!石田三成やるじゃない!」と言いたくなるんですが、この一柳家記自体の信憑性が薄い上に「一説には石田三成は出てないかも^^;」とか書かれているので、これはちょっとウソか本当かわかりませんね。

三献の茶の話はやっぱりウソ

石田三成の出自に「お寺の小姓」だったという話もあります。そこで生まれたのが「三献の茶」という話。長浜城の城主になった秀吉がある日鷹狩にでかけます。その時にちょっと休憩で立ち寄ったお寺でお茶のもてなしを受けたと言うんですよね。

  • 一杯目はぬるいお茶を大盛り。これをごくっと一気に飲んで喉の渇きをいやした
  • 二杯目はやや熱い茶をちょっと少なめに。心遣いに気付いた秀吉はもう一杯所望した
  • 三杯目はキリッと熱いお茶を少なめに。

この相手への気配り(喉の渇きを癒やすこと、お茶の味を楽しむこと)は並の寺小姓ではない、と考えた秀吉はこの小姓を城に連れて帰り自分の家来にした。それが後の石田三成になったというお話。

残念、これも美談なんですけどウソらしいですね。秀吉が長浜城主になった時というのは家来の数が実に少ない。出身は尾張(愛知県)と言いますし秀吉自体が高い身分の生まれではないので、家来というものがいなかったんです。そこで彼は親戚筋から探したりや長浜という土地で有能な人をかき集めることになります。その時に三成は父と兄と3人で秀吉の家来になっているというのが正しいようです。

秀吉家来の派閥がいざこざの原因

加藤清正や福島正則は尾張の親戚筋から、大谷吉継や石田三成は長浜の地元採用、そういう眼で見ると後々の対立関係がこういうところから出たのかなあと見えてきますよね。加藤清正や福島正則というのは猛将として名前が残っているので、それに比べると三成というのは勇猛果敢なタイプではなかったのでしょう、出世していくのが武力ではなく政治力だったのが親戚筋からすれば「弱虫のくせに。ケッ!」と思われたのかと。

彼らが武人として名前を上げていくのに比べ、三成は堺奉行や後方支援、秀吉が生きていた時には外交手腕を発揮して島津義久に降伏を促したり、上杉景勝と秀吉の間をとりもつために三成と直江兼続が親交を深めた、なんて話もありますしね。

勇猛さで名高かった渡辺勘兵衛をもらってた給料全部なげうって雇い入れたり、4万石もらっていた時に半分の2万石を渡して島左近を召し抱えたりするのも、一見「金かよ」と思わせる反面三成の魅力がないと金では武将たるもの動かないところがありますからね。大谷吉継などは無二の親友として描かれたりもしますし。

三成、秀吉亡き後大いに嫌われる

そんな石田三成さんは秀吉亡き後、見事に転げてしまいました。石田三成は同じく近江出身の淀君と組んで豊臣家を残そうとする、加藤清正や福島正則は三成憎しからやがて徳川家康と組んで関が原の合戦へと続く。そんなストーリーが多いですよね。実際のところもそんなことだったのかなと。

もし家康に使えていても性格的に合わなかったでしょうね、家康の家臣って本当に勇猛な人が多かったから。政治手腕として名前が残ってるのって本多正信くらいだと思うのは私だけでしょうか。

そんな三成ですが、きっと根は悪いやつじゃないんです。優秀で政治交渉事は得意な反面、ちょっと人に対して冷たい部分があったのかもしれませんが…そんな三成をどうぞ愛してください(^_-)

戦国時代繋がりということでこんな記事も紹介しておきます(^_-)

www.nubatamanon.com